カテゴリー

アクセスの多い記事

« 大手メディアが伝えない大統領選挙不正調査:オハイオ州の勝利者は未定になった | トップページ | 米下院の調査機関が大統領選挙不正疑惑の調査を開始 »

2004/11/24

「ダラスの秘密」byアリー・オサリバン

エルサレム・ポスト紙2004/11/21付け記事より。全文を以下に翻訳掲載。



ダラスの秘密(The secrets of Dallas)


by アリー・オサリバン

1964年4月7日、ニューオリンズ警察署所属の26歳の刑事が、前年11月に起きたジョン・F・ケネディ大統領暗殺事件を調査するウォーレン委員会に召還された。

刑事の名はフレッド(後にイフライム)・オサリバン、私の父親だ。

父がリー・ハーベイ・オズワルドと知り合いであることは私もよく知っていた。二人は半ブロック離れた場所で育ち、学校ではホームルームの時間で同席していた。父は何年もの間、リーの前の席に居た。アルファベット順では、オサリバンという名は“オズワルド”よりも前だったからだ。

母親の実家には、委員会への協力に際してジャクリーン・ケネディから父宛てに送られた感謝の手紙がある。事件について父は滅多に話さなかったが、1人の人生を偉大なる冒険へとつなぐ断片的な情報だけは残されている。

ダラスで発生したケネディ暗殺は象徴的な事件だった。事件発生時、自分が何処に居たかを誰でも記憶することになったが、同じように、もう1人のジョン---ジョン・レノンが射殺された時もそうだったし、 イツハク・ラビン(イスラエル首相)が土曜の夜に暗殺された事件もそうなった。

しかし、JFKに関しては、我々は陰謀の存在を信じている。というよりは、一体どうやって、1人の狙撃者が、ほとんど不可能ともいえる距離から、走行中の車列の中の、合衆国大統領を暗殺することができたのか?

私の父は、いつも事件の背後に多くの秘密があると仄めかしていたが、JFK暗殺計画と黒人公民権運動主導者のマーティン・ルーサー・キング・JR暗殺---1968年にテネシー州メンフィスで、白人至上主義者ジェームズ・アール・レイに射殺された---はどちらもニューオリンズを基点にしていると語っていた。

1960年代のニューオリンズには多くの謎があったが、ニューオリンズ警察署の情報指揮官である私の父は、それをリングサイドで観察していたわけだ。

私の父とオズワルドの関係は、オズワルドが高校時代に民間空中哨戒部隊で活動していた頃、行軍訓練チームに勧誘した件も含んでいる。

「オズワルドはいつも直立不動で、いつでも出動の準備ができていると言わんばかりに、視線は前方をまっすぐ、胸を張っていたので、訓練チームで一緒にやれると思ったのです」ウォーレン委員会で、父は話した。

「彼ならやりとげそうでした・・・まあ、小隊に入ったら優秀なリーダーになれそうな、良い印象を持ちました」

スタンフォード大学図書館の地下で、委員会での父の証言を読んでみると、委員会が父に、デビッド・フェリーと呼ばれる人物---ニューオリンズでよく知られた、マフィアとつながりがある同性愛者----とオズワルドとの“関係”について質問している部分を見つけた。

「記憶をはっきりさせようとしています」父は委員会で話した。「知ってること、聞いたことを、はっきりさせようと務めていますが」

「ちょっと混乱しているのです。本当は憶えていないはずなのに、憶えているかのように感じることがあるでしょう?」

おやおや、その頃の親父はまるで青二才の、罪のない人物みたいに見える。

結局、父はフェリーを思い出した。フェリーは最初“未成年者との反自然性交犯罪”で訴追されていたが、暗殺事件の直後に“オズワルドの活動”に関係していたとして逮捕されていた。

「続けて」委員会のメンバーの1人、ウェズリー・リーベラーに促されて、父は詳細を語りだした。

そんなわけで、父と他のニューオリンズ署の刑事は、暗殺事件直後に、空港へフェリーの乗る飛行機を調査するために向かった件を話した。そうした調査は父達が率先し、刑事たちはフェリーが何らかの形で暗殺事件に関わっているのではと考えていたという。

「我々は空港で、彼の機が飛行可能かどうか調べるつもりだった。フェリーがオズワルドをダラスに送り込んだと思っていたからだ。しかし飛行機は飛べる状態になかった。タイヤは磨り減り、機材は紛失しており、塗装は剥げていた。」

「もしかしたら飛行機を借りたのではと考え、調べたが、フェリーに飛行機を貸す会社はなかった」

明らかに捜査は行き詰っていた・・・しかしそれでも、ニューオリンズ地方検事ジム・ギャリソンは、後にフェリーを(オリバーストーンの映画「JFK」ではジョー・ペシが印象的に演じたが)暗殺事件の重要容疑者として、殺人事件後3年以上に渡り、疑惑の渦中に追い詰めていくのだ。

ギャリソンはJFK暗殺を“同性愛者の衝動殺人”としてとりかかり、やがてさらに広大なCIAと反カストロ組織、軍需産業による共同計画と見なし、フェリーがその中で重要な役割を果たしたと宣言していた。1967年2月に死亡する直前まで、フェリーは全ての嫌疑を否定していた。(訳注1

ケネディー暗殺陰謀論者達は、数年間に渡り私の父の元に立ち戻ったが、それは1970年代まで続いた。

目を閉じると、親父が若い警官だった頃が想像できる。髪は古臭い短髪で、クリスマスツリーを放り出して、メノラ(ユダヤ教で使う燭台)に火を点し、シオンの国へ旅立つ以前、まだアイリッシュ系カソリックの魂を持っていた頃だ。

私の父はカソリックのケネディに票を投じた。JFKの死は多くの人々の心を傷つけ、不意をつき、自分が何を成し遂げ、何になれるのかについて、多くの人々に考えさせることになった。

父はそうした影響を受けた1人であった。証言を聞けば、彼がいかに憔悴していたかがわかる。

「事件が発生してから、相当考えてみたんですが」残念そうにしめくくるべく、父は委員会で証言している。「助けになりたいと思っても、何も思いつかないんです・・・思いつく事が何もない」

私が成長するにつれ、父がよく話してくれたのは、人々の目に触れないところでJFK暗殺事件にはさらなる秘密があるということだった。しかし父は詳細について話してくれなかったし、私も話を聞きだそうとはしなかった。親しい友人のような存在だったが、父はいつもプライベートな部分を持っていた。私が知る限り、父ほど秘密を隠し通す人物を見たことがない。

かつて、父の机の引き出しから、父の名前と写真で作られたレバノンの免許証を偶然発見したことがある。彼はそれを払いのけ、知らないほうが身のためと私に話した。それ以上首を突っ込まないように、私は育てられた。

しかし、時が過ぎ、脳梗塞で記憶がダメージを受けはじめる前に、私はもっとJFKについて父から話を聞きだすべきだったと思う。

そんなわけで、41回目の記念日が近づいたある日、私は父に電話して、もう一度だけ聞いてみた。

「41年!もうそんなに経ったのか」ミシシッピの介護施設から、国際電話の回線を通じて、信じられないとばかりに口ごもりながら、父は話した。

「JFKを殺したのは誰だったの?」果たしてアメリカの最も複雑な謎に新たな光明をもたらすことになるかどうか考えながら、私は父に率直に聞いてみた。

「リーだよ」父は言い聞かせた。「彼に決まってるじゃないか」

「それだけ?」

「まあ・・・手を貸した人物については、私自身も疑がっている事がある」

その時、看護婦が父の電話を切ってしまった。




訳注1:
ニューオリンズ地方検事ジム・ギャリソンが、実際にJFK暗殺事件容疑者として起訴したのは、デビッド・フェリーの背後に居た企業家クレイ・ショー(後にCIA工作員と判明)であった。ギャリソンの追求を受けたフェリーは、裁判前に自宅で“自然死”した。JFK暗殺事件の核心に最も近づいたとされるギャリソン検事の捜査については本人の著作「JFK―ケネディ暗殺犯を追え」(ハヤカワ文庫NF)に詳しい(映画JFKの元となった著作)。

« 大手メディアが伝えない大統領選挙不正調査:オハイオ州の勝利者は未定になった | トップページ | 米下院の調査機関が大統領選挙不正疑惑の調査を開始 »

未解決事件」カテゴリの記事

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/1730/2049728

この記事へのトラックバック一覧です: 「ダラスの秘密」byアリー・オサリバン:

« 大手メディアが伝えない大統領選挙不正調査:オハイオ州の勝利者は未定になった | トップページ | 米下院の調査機関が大統領選挙不正疑惑の調査を開始 »

2016年5月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31