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2006/12/14

真珠湾攻撃65年後の証言:米巡洋艦は見ていた

先日、コロラド州の地元新聞に真珠湾攻撃に関する大変興味深い記事が掲載されたので、以下に全文翻訳して紹介。

同記事の取材先、米海軍退役軍人フェントン氏の証言によれば、真珠湾攻撃直前に、ダグラス・マッカーサー将軍(当時はアメリカ極東軍司令官)は、日本の艦隊が太平洋上を合衆国方面に向かっているという報告を受けていたことになる。

USS Boise, CL-47

米巡洋艦ボイシ(1938年-1946年)

65年が過ぎ、残された疑問(65 years later, his questions linger)

巡洋艦ボイシ乗組員は真珠湾に向かう艦隊を目撃した

by エド・シーラバー記者:コロラド・スプリング・ガゼット紙2006年12月6日記事

Joe Fenton, 82

インタビューに答える82歳のジョー・フェントンさん

毎年この時期になると、ジョー・フェントンは、後に真珠湾攻撃となる破壊行為の予見に思いをめぐらせている。

訓練所を出たばかりの17歳6ヶ月で、フェントンは米海軍巡洋艦ボイシの給油係になった。巡洋艦ボイシは、空港建設資材を輸送するために太平洋経由でフィリピンに向かう5隻の商船を護衛する任務に就いていた。1941年11月28日の夜明け前、巡洋艦の拡声器から乗組員達へ、戦闘体制を告げる命令が鳴り響いた。

慌てて甲板に上ったフェントンは、2ダースほどの国籍不明艦が3マイル先の地平に見え、東に向かっているのを確認した。月明かりに照らされ外形が浮かび上がったその艦隊は、巡洋艦ボイシの存在に気づいていなかった。

多勢に無勢の状況で、無線通話停止命令の下、巡洋艦ボイシは艦隊に発砲することなく、数日間後まで目撃事実を伝えられなかった。

巡洋艦ボイシがマニラに達すると、ボイシの乗組員達はダグラス・マッカーサー将軍の側近達に目撃事実を報告した、とフェントンは語っている。彼の記憶によると、将軍側の返答は「我が軍同様、連中にも海に入る権利はある」というものであった。

12月7日に真珠湾攻撃の知らせが伝えられてから、フェントンと同僚達は、アメリカを第二次世界大戦に巻き込むことになる艦隊を目撃したことを悟った。真珠湾攻撃直後、太平洋の或る島影に身を潜め攻撃命令を待ち待機していた巡洋艦ボイシの中では、艦隊を目撃した時に何かできることがあったのではという話で持ちきりだった。

今となっては当時の会話も記憶の奥に霞んでいる。当時の乗組員のほとんどは亡くなった。しかし、コロラド・スプリングスの水道工事会社の経営から引退したフェントンは、当時の会話を自ら再生している。

「我々はあの時全てを食い止めることができたかもしれないと思うんですよ・・・警報を鳴らしていたとしたら」82歳の老人は先週台所で語った。「いつも考えるんです・・・自分なら攻撃を防げたかもしれない・・・そう思うと本当に悲しくなるんです。」

しかし、そう考えた後でいつも思い至るのは、もし巡洋艦ボイシが、その存在を相手に知らせるような動きをしたならば、すぐさま日本の艦隊に砲撃され、ボイシは歴史のページに沈んだかもしれなかったとの実感だけ、と彼は言う。

「あの時、無線を使っていたら、第二次世界大戦の様相は全く違ったものになったかもしれませんが、その代償に命を失っていたでしょうね。」フェントンは語った。

あの朝の攻撃で失われた米国人2,500人を追悼する全米規模の催しは、今年で65年目を迎える。ハワイに行き、行事に参加する人々もいるが、地域の記念碑に集う人々も多い。

フェントンはコロラド・スプリングスで、当時の新聞の切り抜きや、海軍と後の陸軍での奮闘を示す勲章に囲まれて過ごすことになる。しかし彼の頭には、あの太平洋上で目撃した光景が焼きついている。

そこに居合わせた同僚は誰一人その瞬間を忘れては居ないが、歴史の記録には全く残されていない。乗組員の1人で現在フィラデルフィアに住み、かつて巡洋艦ボイシの同窓会を主催したメルビン・ハワードは、当時船上に居た者は誰でも攻撃命令を待ち待機していたことを思い出した。

「ついに攻撃命令は出されなかったんです」ハワードは言う。「あれで良かったんです。攻撃すれば、すぐに砲撃されて、私達は海の藻屑と消えていたでしょうからね。」

アメリカが参戦してから、巡洋艦ボイシは太平洋とヨーロッパに14回出撃し、ガダルカナル戦や、有名なドゥーリトル空襲前の偵察任務に従事していた。

1942年、巡洋艦ボイシはエスペランス岬沖で27分間に6隻の日本艦を撃沈した際に最大の栄誉を得た。船体の一部を砲弾に打ち抜かれながら、ボイラー給油係から技術者になったフェントンは、冷静だった自分を憶えている。

息子のフェントンをデンバーで育てた母親は、巡洋艦ボイセの掲載された新聞記事の切り抜きを集め、彼が帰還した時にスクラップブックにして渡した。フェントンは従軍中に日記を書いており、最近それを保存のためにタイプライターで打ち直した。

「何が起きているのかわからず、我が国は参戦してもいなかったので、艦隊は皆停止しており、我が艦の砲塔は港側に繋がれていた」1941年11月の光景を彼はそう記している。「もう少し早くトイレに行っておけば良かった。」

その後陸軍に転任し、朝鮮戦争時にアジアで短期間の任務に着いた後、フェントンはコロラド・スプリングスで起業した。フェントン配管&暖房工事社を経営し、1982年に引退。会社を息子に譲った。

会社には時折立ち寄ってコーヒーを飲み、木彫りの彫刻を家族や友人のために製作している。伴侶に2度死別されたこの名誉ある退役軍人は、毎週金曜日夜に退役軍人クラブでガールフレンドと夕食やダンスを楽しんでいる。

しかしながら、1941年暮れの出来事は過去にはなっていない。真珠湾の話題になるたびにあの日の出来事が頭に浮かび、それを考えるたびにまたしてもどうすべきだったか思いを巡らせている。

「あの時、日本の艦隊は我々に敵対的行動をとらなかった。」フェントンは言う。「まるで二人の見知らぬ者同士が夜中にすれ違ったみたいだった。我々は砲撃できなかった。そんなことをしたら、生き残れなかっただろうね。」
(以上)

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