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05/27/2008

マイク・グラベル、選挙活動の継続を断念

2008年大統領選挙に、一番最初に立候補した元アラスカ州上院議員マイク・グラベル氏が、移籍して最後の望みを託していたリバタリアン党での指名を得られず、やむなく選挙活動継続を断念すると発表した。5月26日のリバタリアン党予備選挙後の会見で、本人自ら断念の意志を明らかにした。

リバタリアン党は、2006年に共和党から移籍したジョージア州議員、ボブ・バー氏を党の大統領候補者に指名した。

マイク・グラベル氏は会見でこう語った:

「私の政治生命はこれで終わった。15才から今日まで・・・私の政治生命は今終わったが、別にたいしたことじゃないさ。今の私は物書きで、講師だ。今後も、自由と解放の課題を推し進めていくつもりだ。私が死ぬその日まで、やっていくんだ。」


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05/25/2008

オバマ暗殺を扇動するヒラリー

5月26日に追記しました
Hillary

2008年5月23日、サウスダコタ州アーガスリーダー紙編集部のインタビューで、敗色濃厚にも関わらず選挙活動を続ける理由について問われたヒラリー・クリントン上院議員は言った:

「1992年の時は、6月半ばのカリフォルニア州予備選に勝利するまで、私の夫は党推薦を獲得できなかったんですよ。ボビー・ケネディがカリフォルニア州で6月に暗殺されたのは誰でも憶えてますよ。」


つまり、ヒラリーの脳内プランによれば、ライバルのバラク・オバマ候補は、党の推薦を受ける前に、無残にも暗殺されるというわけだ。

ヒラリーのイカれた発言にバラク・オバマも仰天しているだろうが、一番驚いているのは、暗殺されたボビー・ケネディの子孫たちだろう。ボビー・ケネディの子供のうち、ロバート・ケネディ・ジュニア弁護士、姉のキャサリン・ケネディ、妹のケリー・ケネディの3人は、ヒラリー・クリントンを推薦しているのだ。(JFKの娘キャロライン、JFKの弟ロバート・ケネディ上院議員とその息子パトリック・ケネディ下院議員はオバマを推薦している)

周囲の批判に気づいたヒラリーは、慌てて「ケネディ家に無礼であったとすれば後悔している」と、謝罪に似た曖昧な会見を開いた。肝心のオバマ陣営に対する謝罪はナシである。


AP通信のデブリン・バレット記者はヒラリーを「政治音痴」と評しているが、むしろこれはヒラリーの歪んだ性格から生まれた願望だろう。多くのメディアが指摘するように、彼女が選挙戦での逆転の可能性を主張するべく、ボビー・ケネディの件を引き合いに出したのは、今回が初めてではない。

例えば、2008年3月6日タイム誌インタビュー

「有権者の皆さんは忘れてると思いますが、かつて、予備選はもっと長く続いたものですよ。ボビー・ケネディ暗殺の悲劇が6月だったのは誰でも憶えてますよ。私の夫だって、党代表の決着をつけるのに1992年6月のカリフォルニア州までかかったんですよ。予備選の決着が6月までずれ込むのはとりたてて珍しいことじゃありません。」


2008年5月7日インディアナ州予備選後の支持者向け演説:

「私の夫は1992年6月まで党の推薦を獲得できませんでした。ケネディ上院議員が選挙戦の終盤カリフォルニア州で勝利した事実を私は憶えています。」


同じく2008年5月7日、ウェストバージニア州での演説:

「1968年のカリフォルニア州予備選で何が起きたか、私はとても良く憶えています。皆さんご存知のように、ケネディ上院議員が勝利したんですよ。」

オバマ候補に対する暗殺懸念が深刻化し、シークレット・サービスの組織内で人種対立が悪化している最中に、ライバル候補がこんなスピーチをしているとは、単なる失言では済まされないだろう。むしろ悪意ある挑発か、あるいは映画『テレフォン』に登場したような類の、全米に散らばる現代の“サーハン・サーハン”たちに向けた“メッセージ”に等しいのではないか。

もはや大統領選どころではない。ヒラリー・クリントンは政界から身を引くべきだ。

2008年5月26日追記:失言騒動の鎮静化を図るべく、ヒラリー陣営が馬鹿げた反撃に出た。5月25日日曜版ニューヨークデイリーニュース紙に掲載されたヒラリー・クリントン自身の寄稿文『なぜ私は選挙活動を継続するのか(Hillary: Why I continue to run)』の中で、ヒラリーはいきなりウソを書いている。ものすごく簡単にヒラリーの弁明を要約すると、「文脈を無視して私の発言の一部を取り上げるのはお止め!私は夫の大統領選挙と、ボビー・ケネディのそれが6月まで継続したって言っただけなのよ!」と言っている。歴史を捏造する姿勢はブッシュにソックリだが、あまりにもやり方が稚拙だ。一体この人は、録音された音声が自分のものではないとでも言うつもりなのだろうか?)

"We all remember Bobby Kennedy was assassinated in June in California."

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05/11/2008

母の日とイラク戦争

Band of Sisters: American Women at War in Iraq

「イラクでは、あらゆる場所が戦線である。そのイラクで、米軍女性兵士たちは、階級・所属を問わず、あらゆる場所で戦っている。2003年以来、イラクとアフガニスタンに派遣された女性兵士は15万5,000人以上-1991年の湾岸戦争に比較して、その人数は4倍である。430人以上の女性兵士が戦傷を負い、70人以上が戦死しており、その戦死者数は朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争で戦死した女性兵士総数のほぼ2倍に及ぶ。」

(source:クリステン・ホルムステッド著『Band of Sisters: American Women at War in Iraq』 公式サイト

軍事国家アメリカの、富裕でない大多数の国民にとって、戦争は日常生活の一部であり、もはや誰も無関係ではいられない。その国の最友好国(?)である日本の国民も、それに無関係でないと思い知る日がやがて来るのだろうか。

今回は、エリ・ペインティドクロウという人の母の日コラム以下に翻訳掲載。エリ・ペインティドクロウは米退役軍人で、アリゾナ州先住民族ヤキ族出身の女性だ。

こんなコラムを読んでいる時にも、憂鬱なニュースがどんどん追加されている。9日午後、イラクとアフガニスタンで戦死した兵士の遺体を火葬するにあたり、ペットの遺骸も扱う民間火葬場が利用されていることが暴露され、ペンタゴンは釈明に追われている。

2003年以来、すでに4万3,000人以上の「医学的に戦闘不適格」と診断された兵士が、イラク・アフガニスタンの戦地に派遣されていたことも明らかになった。米保険社会福祉省の研究機関、精神保健研究所の所長が、ワシントンで開催された米精神医学会定例会議で説明したところによれば、イラク・アフガニスタンで戦闘中に死亡した兵士の人数よりも、両戦地から帰還後にPTSD等が原因で自殺する兵士の人数のほうが多くなる可能性が高いという。(現在までのイラク・アフガニスタンでの米兵戦死者数は4,560人を超えている。)

丸腰のイラク市民を虐殺した件で、イラク政府は米国務省に事件を起こした傭兵企業ブラックウォーター社の国外追放を求めていたが、逆に米国務省は、今春ブラックウォーター社のイラク業務を延長している

先週木曜日には、イラク正規軍がイラク・サドルシティの住民に対して、住居から退去し近接するサッカー場に避難するよう呼びかけた

また大勢が殺害されることになるのだろうか。


母の日の退役軍人:戦闘ブーツを履く母親たち

by エリ・ペインティドクロウ:CommonDreams2008年5月10日付掲載コラム

20歳で3歳と5歳の子供の母親でいることは楽ではなかった。シングルマザーとして、ゴキブリだらけのアパートで、生活保護を受けながら暮らすのは人生とはいえなかった。規律を学ぶ必要があると思い立った私は、陸軍徴募事務所に行った。新兵訓練で5マイル行進をしながら、21歳の誕生日を迎えた。多くの母親が新兵訓練を卒業していった。私もまた例外ではなかった。

現在の私は、女性たちのネットワーク作りに励んでいる。彼女たちの多くが子持ちで、米軍で服務した経験がある女性たちだ。私達は真実を語り、平和のために声を上げる道を模索している。今年の母の日は、従軍した母親達の、皆さんが普段聞きそうもない話を思い出す機会だ。

1987年、私は正規兵となり、ホンジュラスに派遣された。ひとたび軍服に身を包んだら、兵士として期待されるとおり振舞わねばならない。任務に集中し、考えるのを止める。感情を押し殺すことに慣れる。帰還してから、子供達にはそうした人生の変化について話さなかった。ただ戻って、仕事に行って、子供を食わせるだけ。

1993年、私は新兵訓練軍曹学校に行った。さらに8週間、家を空けた。軍務に服する女性として、感情や不安を抑えなければならなかった。それが子育てに影響を及ぼした。子供達は、かなり早い時期から、軍隊に入るのがどういうものなのかを知ることになった。感情を失い、自分を失い、人とのつながりを失うのだ。軍は訓練でそれら全てを私から奪い、その総仕上げとして私をイラクに派遣した。近ごろでは、良い母やパートナーになろうとも思わないようになった。

私の欝は深刻かもしれない。ベッドから起きられる日もあるが、起きられない日もある。それ以外の日は泣くことしかできない。軍隊では規律に従うよう訓練された。PTSDになると、退役軍人局の査定プロセスは助けを得るにあたって最大の障害物に見えてくる。それで、ほとんどの退役軍人は、助けを求めることを諦めてしまう。

イラクとアフガニスタンから多くの女性が帰還し、自分の身に何が起きているのか理解できないでいる。もう子供の傍にはいられない。怒りと悲しみをコントロールできなくなったので、誰も傍に近寄る事ができないのだ。彼女たちは皆PTSDに苦しんでいるが、気丈に振舞おうとする。弱みを見せたくないからだ。

私が自分の体験を話し始めた時、元海兵隊員の息子は、私が発狂したと考えた。今でも息子は私のことを心配している。私がこのまま喋り続けたら、誰かが殺しに来ると息子は考えている。でも、母親として、そして8歳の孫を抱える祖母として、子孫たちのために道を切り開く義務を感じている。イラクでの経験が私にこの教訓を与えた。

20代の若者が、まるで遊び場から戻って来たみたいに、砂塵と熱に汚れた顔をして、腕章に愛する人の写真を忍ばせ、武器を背負って、高校卒業について話しながら、パトロール任務に就くのを見て、私の心は撃ち砕かれた。

国内でもイラクでも、母親達は子供のために泣いている。母親たちの犠牲は勘定されることがない。私達は治療を受けないままの負傷者で、同時に何かを変えることができる治療者なのだ。私達は命を守る。私たちが命を生み出すのだから。亡くなった母親たちと子供達のために祈りを捧げよう。母の日に亡き人々を想い、自らも思い出そう。互いを癒そう。そして、戦争を止めさせるためにできる事は何もないと、無力感を感じている全ての母親たちへ-真実を知っているのなら、諦めないで。

-エリ・ペインティドクロウはSWANの共同設立者で、カリフォルニア州オークランドのWomen of Color Resource Centerと共に平和活動を行う退役軍人。SWAN(Service Women’s Action Network:女性軍人活動ネットワーク)は、軍務と戦場経験のトラウマを治療するために集まった女性退役軍人ネットワークで、その体験を文書に綴り、兵士から平和活動家への転換を支援している。

(以上)

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05/08/2008

オバマ・ガールがマイク・グラベル支援?

2008年合衆国大統領選挙民主党予備選。

バラク・オバマがノースカロライナ州で大勝した。ヒラリー・クリントンが僅差でインディアナ州を獲得した。オバマは民主党指名にいよいよ近づいた。クリントンはそれでも選挙を降りるつもりはないと言う。

・・・さて、そんな選挙情勢と全く無関係に行動する大統領候補者といえば、民主党改めリバタリアン党の大統領候補、マイク・グラベル氏だ。しかも今度は、歌って踊れる77歳として、売り出そうとしているらしい。

バラク・オバマ人気に便乗して売り出した噂のセクシーモデル、オバマ・ガールの最新ビデオは、なんとfeaturing マイク・グラベルだ!

オバマ・ガールも明らかに気恥ずかしそうである。問題のビデオはYoutubeでご覧下さい。マイク・グラベルという名を聞いたことがないという方には、ホントは立派なヒトなんですよ、と言い訳しておきたいのだが・・・。

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05/06/2008

シークレットサービスは大統領を護れるか

“黒人初のシークレットサービス・エージェント”が目撃した疑惑


1959年、イリノイ州の貧しい家庭に生まれたアフリカ系アメリカ人のエイブラハム・ボールデンは、アイゼンハワー大統領によってシークレットサービス・シカゴ支局要員に採用された。1961年、カリスマ的人気を誇る新大統領ジョン・F・ケネディは、ボールデンをホワイトハウス担当要員に起用した。黒人としては初の大統領警護要員の誕生であった。

だが、ホワイトハウス勤務を始めてまもなく、黒人のボールデンが直面したのは、同じシークレットサービス要員である同僚たちの、人種差別に根ざした嫌がらせとあからさまな敵意だった。大統領が南部を訪問する際、彼だけは他のシークレットサービス要員とは別の宿泊設備を利用させられた。

だが何よりもボールデンが懸念したのは、大統領を警護する立場にある同僚たちの、退廃した勤務態度だった。仕事中の飲酒、警護ポジションからの離脱等、そのいいかげんさは目に余るものだった。その怠慢ぶりを上司に報告すると、ボールデンはわずか勤務3ヶ月でホワイトハウス担当を解かれ、再びシカゴ支局に戻された。

1963年10月、シカゴ支局に勤務するボールデンらシークレットサービス要員の下に、FBIから緊急連絡が舞い込んだ。11月2日にシカゴを訪問予定のケネディ大統領を狙い、4人の“キューバ系反体制派”に属する暗殺者が、狙撃を計画しているというものだった。ケネディ大統領はシカゴ訪問を急遽延期した。シークレットサービス・シカゴ支局は容疑者を拘束したが、まもなく釈放した。11月18日には、フロリダ州タンパを訪問するケネディ大統領の車列を狙う暗殺計画の情報が舞い込んだ。

1963年11月22日、ケネディ大統領は、テキサス州ダラスを訪問中に狙撃され、死亡した。

1964年初旬、ウォーレン委員会の調査報告書に、シカゴとタンパの暗殺未遂の件が含まれていない事を不審に思ったボールデンは、ウォーレン委員会主任顧問J・リー・ランキンに連絡した。委員会で証言するためワシントンに向かったボールデンは、到着と同時に収賄の嫌疑をかけられ、逮捕された。シカゴ支局でシークレットサービスの捜査対象となっていたマフィア関係者が、ボールデンが賄賂を受け取ったと証言したのだ。ボールデンは有罪を宣告され、6年間服役する羽目になった。合衆国史上初の黒人シークレット・サービス要員は、同時に最初の政府内告発者となったが、60年代のアメリカ社会はボールデンに冷酷なままだった。

ボールデンを罠に嵌めるために偽証した人物、サム・デステファノは、1973年に殺された。サムを殺したと疑われる人物、リチャード・ケインも後に殺害された。二人ともシカゴの大物マフィア、サム・ジアンカーナの関係者であった。

1992年、ケネディ暗殺真相解明の世論が高まる中、米議会は「JFK法」を成立させ、暗殺事件調査記録の再評価を開始した。1994年、エイブラハム・ボールデンの件が議会で初めて証言された。議会はシークレットサービス側に説明を求めた。するとシークレットサービス本部は驚くべき回答をした。保存命令に反して、暗殺事件当時の調査記録のほとんどを既に廃棄したということだった。

1998年、アメリカ国民がモニカ・ルインスキー事件の推移に釘付けになっている最中に、議会の最終報告書が公表された。この調査過程で多くのCIA文書が新たに機密指定を解除されたが、未だ百万件以上の事件記録が機密のまま保管庫に眠っているという。(2017年に一部が機密解除予定)

2008年、72歳のエイブラハム・ボールデンは、回顧録『The Echo from Dealey Plaza: The True Story of the First African American on the White House Secret Service Detail and His Quest for Justice After the Assassination of JFK』を出版し、名誉の回復を求めて現在も活動している。


シークレットサービスの「過失」再開?

2008年2月20日、テキサス州ダラスで、民主党大統領候補バラク・オバマは遊説を行った。会場となったリユニオン・アリーナには1万7,000人を超える聴衆が集まった。会場入り口で、入場者の所持品検査と金属探知機による保安検査を実施していたダラス警察に対し、オバマ候補の警護を担当するシークレットサービス側から奇妙な命令が下された。「入場者の検査を止めろ」というものだった。入場者チェックを止めれば、会場前の混雑が解消され、入場者は早く着席できる、というのがその理由だった。連邦政府当局の命令に従い、ダラス警察側は所持品検査と金属探知を中止した。会場警護を担当した警察官は、匿名を条件に取材に答え「あんなに大勢が所持品検査無しで入場するのは不安だった」と話した。

ダラス警察の警護責任者は、「保安活動上の過失だった」としながらも、集まった聴衆は皆“フレンドリー”だったので問題はないと言い訳した。セキュリティサービス本部は疑惑を否定し、当初から入場者全ての検査をする計画ではなかったと説明している

シークレットサービス内部の人種差別問題は現在も続いている。2008年4月14日、ホワイトハウス警護を担当するアフリカ系アメリカ人のエージェントが、普段利用しているシークレットサービス専用訓練施設に、首吊り縄がぶら下げられているのを発見した。縄を仕掛けた白人エージェントには、まもなく上司から休暇命令が下されている。シークレットサービスでは、組織内部の昇進プロセスにおいて、人種に根ざした差別待遇が日常的に行われているとして訴訟が起こされ、黒人エージェント60人ほどが、差別経験を記した宣誓供述を法廷に提出している。首吊り縄事件は、シークレットサービス内部の人種差別に根ざした敵対関係の悪化を象徴するものと見られている。

2008年合衆国大統領選挙を前に、米民主党が初の黒人大統領候補を党代表に選出する公算はいよいよ高まっている。果たしてシークレットサービスはその不名誉な伝統を克服できるだろうか?

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