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02/10/2008

ニール・ヤングの悲痛なメッセージ:「音楽で世界は変えられない」

リヴィング・ウィズ・ウォー

2006年に新アルバム『リヴィング・ウィズ・ウォー』を発表し、全米で物議を醸した大物シンガーソングライターのニール・ヤングが、悲観的な心情を吐露している。

「音楽で世界を変えることができた時代は過ぎ去った。今、この時代にそういう考えを持つのはあまりにも世間知らずだと思う。」自作のドキュメンタリー映画『CSNY Deja Vu』がベルリン国際映画祭で特別上映されるにあたり、記者会見でニール・ヤングはそう語っている

CSNY Deja Vu

『CSNY Deja Vu』は、ニール・ヤングが『リヴィング・ウィズ・ウォー』を引っさげて行った2006年度クロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤング全米公演『Freedom of Speech tour』の様子と、それに対する世間の反応を収めた映像作品。このドキュメンタリーでは、例えばライブの最中、『Let's Impeach the President(大統領を弾劾しよう)』が演奏されると、喝采とブーイングの嵐に会場が分裂し、憮然として途中退出する聴衆の姿などを見ることができる。

悲痛な面持ちで音楽観を語るニール・ヤングは、しかしそれでもドキュメンタリーを制作する意義はあったと語っている。「あれをやらなかったら、昔のヒッピー達が思ったことを喋ってるだけになるところだった。そんなの誰が気にする?」「論争を巻き起こすのが目標だった。このフィルムでそれがある程度実現できると願っている。」

『CSNY Deja Vu』サンダンス映画用プローモーション映像

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12/06/2007

87歳の気骨:ヘレン・トーマスの怒り

ヘレン・トーマスは怒っている。かつてないほどに。

Helen Thomas

ホワイトハウス報道の最長老記者ヘレン・トーマス


Watchdog

ヘレン・トーマス最新著作『Watchdogs of Democracy?: The Waning Washington Press Corps and How It Has Failed the Public

レバノン系アメリカ人のヘレン・トーマス女史は、ケネディ政権時代から現在まで、ずっとホワイトハウス番記者を続けている87歳の名物ジャーナリストだ。ホワイトハウス定例記者会見では、いつも最前列に座って、大統領報道官がもっとも答えたくない類の質問をする。

2007年11月30日のホワイトハウス定例記者会見では、デイナ・ペリノ大統領報道官を相手に、いつもどおりの辛辣な言葉を浴びせた。二人のやりとりを以下に抜粋して翻訳する:

ヘレン・トーマス:
「大統領は任期中に兵を撤退させるつもりはないんでしょうか?私の言ってるのは完全撤退のことですが」
デイナ・ペリノ報道官:
「ええと、5,700人が年内に帰還する予定ですから、兵の一部は撤退するわけです。大統領の意見は、兵員規模は戦地にいる司令官たちの判断次第なので、我々は司令官らと・・・成功裡に帰還できるように話し合います。」
ヘレン:
「なぜそんなことに?米国民が口を出す権利はないと?」
報道官:
「国民の意見はすでに反映されていますよ。国民は最高司令官として現大統領を選出したので、大統領は戦地の司令官の意見に従い決定を下すのです。」
ヘレン:
「アメリカ国民がそれに投票したとでも?」
報道官:
「国民は最高司令官として大統領を選出し、その大統領は戦地にいる司令官の提言に従い、5,700人の兵士を帰還させるのです。将来的にもっと帰還できることを望みますが、それはペトレイアス将軍の報告次第で、将軍の帰国は来年3月ですから。」
ヘレン:
「なぜ将軍次第なの?」
報道官:
「だから、彼が地上部隊の司令官だからですよ、ヘレン。戦況の変化を確認するのが彼の・・・」
ヘレン:
「じゃ、私達はあとどれくらいの人間を殺すつもりなの?」
報道官:
「・・・ヘレン、あなたが記者会見室の最前列に座ることができるのは同僚達の好意のおかげなのに、そのような主張をするとは実に嘆かわしいことですね。この記者会見室に入れることは名誉ある特権であり・・・我々アメリカ合衆国が、罪なき一般人を殺しているなどと示唆するのは、馬鹿げているうえに、非常に無作法ですよ。」
ヘレン:
「イラク戦争が始まってから現在までに、我が国が(一般市民を)何人殺したかわかってるの?」
報道官:
「何人かって?・・・ヘレン、我々は敵を追っているんですよ。無実のイラク国民が殺される事態に限っては、我が国はずっと遺憾の意を表してます。」
ヘレン:
「遺憾って?!そんなことしても命は戻ってきませんよ!」
報道官:
「ヘレン、我々は紛争地帯にいるんです。それでも、わが軍は、誰もが自由と解放、民主主義の機会を確実に得られるように、きわめて困難な任務を遂行しているんです。」
(以下略)

二人の険悪なやりとりは、以下のビデオでご確認いただきたい。ペリノ報道官の暗い視線も味わい深い。

辛辣な質問をするにあたって、ヘレン・トーマスは相手を選ばない。2006年3月21日、脚本ナシの質問を人一倍嫌うジョージ・W・ブッシュが特別記者会見の演壇に立ったとき、この最長老ホワイトハウス番記者は戦時大統領に言った

ヘレン・トーマス:
「私から質問させてください、大統領殿。あなたの決断したイラク侵攻は、多くのアメリカ国民及びイラク国民に死をもたらし、多くの者に生涯癒えぬ負傷を負わせました。開戦前の全ての大義、少なくとも公的に表明された大義は、結局のところ真実ではありませんでした。私の質問ですが、なぜあなたはそんなにも戦争をしたいと思ったのですか?ホワイトハウスに入ったその瞬間から、あなたの政権、あなたの政権の閣僚たち、諜報部門、それ以降・・・本当の理由は何ですか?あなたは石油が理由ではないと言いますが、石油獲得のためではなく、イスラエルのためでもないと・・・では、一体何が理由なのですか?」

2002年、マサチューセッツ工科大で講演を行った際に、若手ジャーナリストへのアドバイスとして、ヘレンはこう言っている:

「政治家を相手にインタビューするなら、彼らが公務員で、あなたが彼らの給料を払ってることを思い出させてやりなさい。常に道理に適った質問をしなさい。そして、諦めないで。必ず内部告発がありますから。国を救おうと努力する人は常に存在するんです。」

定例記者会見でヘレンと毎日対決していた相手の1人、スコット・マクレランもこの言葉には苦笑するに違いない。

それにしても・・・アメリカにはヘレン・トーマスがいる。アイルランドにはキャロル・コールマンがいる。ところが日本では・・・マスコミ業界の秘密結社、『記者クラブ』のおかげで、国民が憂鬱な真実を知って気を病むことがないように、あらかじめ業界側が報道を選別してくれているらしい。

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11/06/2007

米ラジオ局チェーン大手がブルース・スプリングスティーンの最新アルバムをボイコット?

Magic

ブルース・スプリングスティーンの新アルバム『Magic

「俺たちはイラクで自由を根付かせるために戦っているはずなのに、同じ自由を故郷で主張する人々に対して、恫喝したり罰したりする連中がいる・・・」

-2003年4月、全米でディクシー・チックスがボイコットされている件についてブルース・スプリングスティーンが寄せたコメント(source

フォックスニュースチャンネルの報道によれば、米ラジオチェーン最大手クリア・チャンネル社は、米ロック界の大御所、ブルース・スプリングスティーンの新アルバム『Magic』の政治的メッセージが気に入らないらしく、各地のチェーンラジオ局に対して「スプリングスティーンの曲を配信するなら、"Dancing in the Dark," "Born to Run" "Born in the USA"等の古い曲だけにしろ」などという指令を密かに出しているらしい。(もちろん、ディクシーチックスの件同様、クリアチャンネル側は報道内容を否定している

しかし実際には、系列局の一部がオーナー企業の命令を無視して(?)新曲を流しているらしく、“ボス”の声を封じる試みは、ディクシー・チックス全米ボイコット運動ほどには盛り上がっていないようだ

保守系メディア企業は、ブルースの何が気に入らないのだろう?例えば、『Magic』の1曲『Last to Die』の歌詞の一節は、こんな感じである:

後ろの席で子供達が寝てる
俺たちは勘定してるだけ
どれほどの血が流されたのか もう量ることもない
ただドアの外に死体を積むだけさ

過ちで最後に死ぬ奴は誰だ
過ちで最後に死ぬ奴さ
血は流れ 心は傷つき
過ちで最後に死ぬ奴は誰だ

まあ、確かに憂鬱だ。ブッシュのアメリカにはふさわしくないといえるだろう。曲中の“過ち(a mistake)”とはイラク戦争のことだろうが、今年9月の時点で未だに国民の3人に1人は「サダム・フセインは9/11テロに直接関与している」と思ってるこのアメリカで、イラク戦争が過ちだといってもそう簡単に通じるはずがない。

Eagles

イーグルス、会心の2枚組新アルバム『ロング・ロード・アウト・オブ・エデン

さて、ブルース・スプリングスティーンがボイコットされそうな現在のアメリカでは、28年ぶりのフル・スタジオ・アルバムを発表したイーグルスがどんな扱いを受けるのかもおおいに心配だ。ファンなら感泣モノの最新アルバム『ロング・ロード・アウト・オブ・エデン』には、保守派を怒らせる危険なフレーズが一杯詰まっている。例えば、タイトル曲『Long Road Out of Eden』の一節はこんな感じ:

アメリカン・ハイウェイを下っていこう
ゴミと瓦礫と文明の残骸を通り過ぎ
傲慢な権利にプロパガンダ満載
今じゃボーッと泥酔しながらドライブしてるのさ

“泥酔”ドライブ?これは単にアメリカ文化を風刺しているだけでなく、イエール大学時代から現在に至るまでアルコール飲料摂取を趣味とするブッシュ大統領を間接的に馬鹿にしているようにも聞こえる。

さらにイーグルスは、新アルバム中の1曲『Frail Grasp On The Big Picture 』で米キリスト教右派を風刺してこう歌っている

我々は神に祈りを捧げる 我等の知る神はアメリカ人である
神は天から統治し 仲介者を通して我等に話しかける
彼は信徒にとっての羊飼いである
我等は歌い 神を賛美し
戦争では神は我等を支え フットボールでは試合を仕切ってくださる

Eaglesatla

10月18日にロサンゼルス・ノキアシアターで開催されたコンサートに登場したイーグルスの面々。(ティモシー・B・シュミット、ドン・ヘンリー、グレン・フライ、ジョー・ウォルシュ)(source)

10月18日、ロサンゼルス市街に新規オープンしたノキア・シアターで、新アルバムを引っさげてイーグルスがコンサートを開催した。その前座を務めたのは、ディクシー・チックス。どうやら彼らは本気でブッシュ支持層を怒らせたいらしい。

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08/15/2007

イラク駐留米軍:狙撃兵の従軍拒否宣言

英国の医学雑誌LANCETに掲載された研究によれば、米軍のイラク侵攻以来、イラク国民の総犠牲者数は100万人に達しようとしている

アフガニスタンではすでに419人の米兵が戦死した。イラクでの米軍戦死者数は3,666人、そのうち3%は自殺が占めているという

英デイリーメール紙の試算によれば、イラク戦争の戦費は米軍・英軍合わせて1秒間に2,000ポンド(約47万円)以上のペースで増え続けている

2008年度のアメリカ大統領選候補者のうち、ヒラリー、オバマはいずれも米軍のイラク駐留について“撤退”ではなく“中東再配備”を主張する。オバマは米国はパキスタンに単独攻撃を仕掛けるべきと主張し、ヒラリーは核攻撃も選択肢から外してはならないと発言して憚らない。民主党トップ集団にとって、どうやらブッシュ政権はソフト過ぎるらしい。

一方でイラク駐留米軍の即時全面撤退を支持するのは、民主党ではビル・リチャードソン候補、デニス・クシニッチ候補、そしてマイク・グラベル候補、共和党ではロン・ポール候補のわずか4人。悲しいことに、アメリカでは戦争を批判するとアウトサイダー扱いされてしまう。

ド根性大統領候補マイク・グラベル
は「ベトナムでの米軍兵士の死は無駄ではない。兵士に謝罪せよ」という批判に応えて、こんなことを書いている

「・・・南ベトナム陥落後、アジア全土に共産主義が拡大するという不吉な予測は実現しなかった。共産国であっても、アメリカ合衆国とベトナムは今や最も良好な貿易関係を築いている。ホーチミン市に行けば、バスキン・ロビンスのアイスクリームを買うことも出来る。

30年間もの無用な流血の結果、5万8,000人ものアメリカ人が殺害され、数万人が手足を失くし精神を病んで帰還した。自己を犠牲にして祖国に尽くした兵士達には敬意を表すべきだ。しかし、彼らの英雄的行動が戦争そのものの無益さを軽減したわけではないことも認識すべきである。現在、イラクで同じ過ちを繰り返すことで、我々は退役軍人や戦地の兵士たちに対して非常に酷い仕打ちをしている。なぜ我々が再び同じ過ちを繰り返しているのか問うてみるのは公正ではないのか?」


テレビに登場すれば怒鳴ってばかりのマイク・グラベルだが、しかし戦争に対する彼の主張は沈黙を通じてさえ広範に知らされるべきだと強く感じる。

過去の戦争を理解し反省するために、私達がすべきことはたくさんある。

現在の戦争を終結させるために、私達にできることはたくさんある。

未来の戦争を避けるために、私達にできることは必ずある。


混迷するイラクでは、米軍兵士による従軍拒否の声もよく聞かれるようになった。今回はある狙撃兵の物語を以下に翻訳して掲載。

私の経歴

VIP警護・狙撃兵から反戦への道程

by 陸軍州兵所属特技兵エレオネイ“エリ”イスラエル:2007年8月9日付Courage to Resist掲載文


2ヶ月前、私は人生を永遠に変える行動を起こした。1人の兵士として、連合軍訪問事務局警護員として、イラクで1年間従軍し250以上の戦闘任務を経験した陸軍狙撃兵として、私は占領軍の一員として従軍し続けることを拒否した。後悔はない。これは私の来歴だ。現在、クウェートでこの文を書いているが、うまくいけば今週中に米国に帰還するまでの“待機中”の身。先週、営倉から出され、今月中にも陸軍から除隊となる予定だ。これから『抵抗する勇気(Courage to Resist)』、『反戦イラク退役軍人会(Iraq Veterans Against the War)』などのイラク戦争反対運動陣営に加わるつもりだ。

人生の中で、私をここまで導いたのは何だったのか?


最初の入隊

1999年春、18歳になった月に、私は米国海兵隊に入隊した。

13歳以降、実の両親とほとんど会わないまま、私はケンタッキー州の保護監督下で育った。成育支援を得られなかった私は浮浪児となり、浮浪児らしく振舞った。

16歳になるまでに、私はドラッグの深みにはまった。9学年の前期以来学校に行かなかったので、あらゆる面で足りなかった私は、しかし生き抜くための知恵と、潜在的な野心と、強気の態度で生きていた。

新兵徴募所に入ってから、海兵隊に入隊するためには、一定の大学履修単位がない限り、高校卒業資格か一般教育修了検定が必要であることを知った。自分が16歳で、8学年しか修了していないと告げると、再度会うことも期待せずに、担当者達はすぐに私を退けた。

彼らは間違っていた。

私は一般教育修了検定に合格しただけでなく、地元の大学で一期を修了した。1年半経過して18歳になった1999年3月に、以前と同じ新兵徴募所に行き、以前と同じ担当者と話をして、一般教育修了検定証書と大学の成績書を見せながら、初めて真の誇りの感覚を感じた。

パリス・アイランド(海兵隊新兵訓練所)に到着して13週後、私は永遠に変わった。私は分隊長として栄えある昇進を果たして訓練を卒業し、海兵隊員として輝かしい経歴への道を順調に進んでいた。

そして、2001年9月11日を迎えた。


祖国のために再入隊

9/11以降多くの人々がそうしたように、私も再び兵役に就きたくなった。新兵訓練の年月の後、私は祖国に対し何かもっと多くの責任を負ったように感じていた。私は大統領や上官らが真実を伝えていると信じていた。自分自身も高潔であると信じていた。不道徳な行いや過ちに自ら進んで手を染めることは絶対ないと自認していた。

2004年に私は再入隊した。今度は陸軍州兵部隊だった。

その頃は、“世界規模のテロとの戦い”に従軍している者は、自分達のやっていることを信じて従軍していると思っていた-契約上の事情や、新兵不足のための留任で従軍を強制されているとは思いもしなかった。戦場を経験した後、今では私が間違っていたと感じている。2006年、私はイラクに派遣された。

イラクでは、私はJVB要員だった。連合軍訪問事務局(Joint Visitors Bureau)で、“中将以上の階級保持者”と“それに相当する文官”を警護するのが任務だ。副大統領、国防長官、統合参謀本部議長、それら階級に相当する“連合各国”の重要人物たちの警護も含まれた。私はそれら特別任務のための訓練をあらかじめ受けて、遠征の大半をそうした“世界規模のテロ戦争”に関わる重要人物たちの一団と共に過ごしてきた。

JVB要員であっても、基本的に私の任務は歩兵だった。JVBの仕事がないときは、“捜索と哨兵”任務や他の歩兵任務に動員された。したがって、JVB要員であっても、“陣地外”での様々な任務-“狙撃監視”や家宅捜査等の任務を負った小隊の狙撃兵として、当番にあたっていた。

任務の最中の活動については“自己防衛”の名の下に正当化されると判断していた。しかしながら、そうした見方は間違っていたと悟るようになった。私は占領する権利のない国に居て、人々の生活を脅かし、アメリカ人の場合なら住居や人々に対して求められるはずの威厳と敬意の基準もないまま活動していた。


殺人

私は“巻き添え被害”から家族を護ろうとした人々を殺害し、命を奪ってきた。イラクの少年らが“アル・カイダ”のような集団に加わるのは、米国の浮浪児たちが“Cribs”や“Bloods”のようなギャングに加わるのと同じだ。それは自己防衛のためであり、威厳のためであり、抵抗のためなのだ。

父親やいとこが我々によって“偶然”殺害され、戦車が近所を通るたびに母親や親戚が泣き叫ぶのを見てきた若者たちにとっては、オサマ・ビン・ラディンが誰であろうと知ったことじゃない。我々が攻撃する“民兵”は、政府を信用しない近所の武装監視集団と何の違いもない。我々も政府を信用できなかったが、権力を与えてしまった。

我々自身の犠牲は、彼ら同様悲惨だが(実に悲惨である)、イラク国民にもたらされた大虐殺の前では影をひそめてしまう。

イラクでの“成功”は、連合軍側の犠牲者の“減少”の問題ではない。我々が全社会に負わせた虐殺が終わり、威厳と主権が回復されたなら、それは成功だろう。

同盟軍兵士の10倍から20倍の割合でイラク国民は死亡し続けている。バグダッドだけでも、5年と9,500億ドル(約112兆683億円)を費やしてもなお、国民は電気と水道が数週間も一度に停止する事態に悩まされている。一方で、我々はしばしば戒厳令を布いて誰も脱出できなくしている。若いイラク人少年が憎悪に満ちた視線で私を見つめていた際、その瞳の中に自分を見たとき、私はもうこれ以上占領軍の役割を正当化できないと悟った。

この戦争の不正を遠方から見ることが出来て、勇気と信念をもって抵抗している兵士達が羨ましい。政治的野心に反して道徳的信念を重視しようとする兵士たちを批判する声もあるだろう。肝心なのは抵抗することだ。最初から兵隊にならない道を選択したにせよ、入隊してから必須基準の高潔さに欠けると悟ったにせよ、真実を悟った時が立ち上がる時なのだ。私にとってその時は、イラクでの1年間の戦闘任務が残り3週間になった時に訪れた。道徳的信条はタイミング知らずだ。


抵抗

私は指揮官に自分の考えを伝えた。最初の話し合いの時から物事がうまくすすまないことはわかっていた。私は上官に、我々がイラクに居ることは不法であると説明した。私はこれ以上この戦争政策を信じられないので、良心的参戦拒否を申請したいと話した。端的に言って、イラク国民に対する戦闘的役割に対して、私はもはや良心をもって加わることはできなかった。

私の口から言葉が出るとすぐ、人生は変わった。過去1年間味わったことのない平穏を心に感じた。自分が正しい決断をしたとすぐにわかった。しかしながら、私は強引に武装解除され、監禁され、家族とも弁護士とも面会を遮断された。

私は作戦室の小屋に違法に監禁され、24時間監視され、2週間後正式に命令拒否罪を宣告されるまで、トイレにも監視がついた。その後1週間は、罪を認めるまで(他に選択肢がなかった)監禁されたままだった。それからすぐにクウェートのアリファン基地に送致され、陸軍刑務所に30日間服役した。つい先日刑務所から出され、今の私は“名誉以外の”除隊にむけて“追放”される過程にある。後悔はない。

上官に信念を伝えてから、そして私が真剣で、脅迫しても無駄と彼らが悟ってから、彼らは“情報戦”になるのを見込んでいた。

私にはMySpaceや他のオンラインネットワークを通じて多くの反戦派の友人を得ており、彼らを通じて私が虐待された件が世間に知れ渡ることになり、その情報は文字通り一夜で世界中を巡った。それに気づく前、私は曹長のオフィスに呼ばれ、自分達の名前がネット中に知れ渡っていると怒鳴られ、罵られた。彼らは、自分達について何と言われているか-私に対する扱いが不公正で、私の良心的兵役拒否申請を拒絶している件-について否定しようとせず、ただ単純に暴露について怒っていた。


軍の反撃

次の日、私は自分がOPSEC(作戦保安上)懸案事項に“指定”されたと説明された。理由はなかった。彼らは敵意と“見せしめ”作りに夢中になって、私の評判と信頼性を没落させる方法を探っていたのだ。

彼らはニセの“相談報告”を数ページ偽造し、私の軍歴を過去に遡って信用失墜させようとした。そうした報告をした前歴がないという事実からそれら非難は虚偽性が明白だったので、彼らは嘘が“もっと必要”になった。

上官らは私のMySpaceアカウント、電子メールアカウント、その他全てのユーザー名とパスワードを繰り返し開示するよう要求した。拒否すれば“嫌疑が追加される”と脅迫された。

彼らは私の電子メール、ブログ、その他全てを読もうとしていた。何か見つけようとしていたのだ。私が機密を漏洩したような事実が見つけられないか彼らは必死で探していた。彼らは私に罪を着せ、可能な限り私の信頼性を損ねようとし、なんとかして私の違法な収監を正当化しようとしていた。

2週間後、私を“情報漏えい”で告訴できないと悟った彼らは、ようやく“一連の命令違反”で私を訴追した。それには戦闘任務への拒否だけでなく、“行進休めの姿勢をとらなかった”とか“任務に遅れた”とかの馬鹿げた嫌疑も含まれた。想像してみてほしい。

結局のところ上官は、もしも私がすぐに全ての罪で有罪を認め簡易軍事法廷に出廷するなら“減免してやる”と提案した。選択肢は明白だった。彼らに協力して、刑務所で30日間過ごして、人生を取り戻す。もしくは、それから2ヶ月間を極度に密閉された制限区域に戻され、機会あるごとに部隊の皆に“戦争に反対したらこういう目に会うからな”と見せしめにされるかのどちらかだ。

とりあえずは、彼らに勝ったと思わせてやるとしよう。

自由

やがて真実は明らかになり、誰もそれを隠すことはできない。イラク占領は大惨事だ。毎日それが続くにつれ、アメリカもイラク国民もより危険になると私は確信している。

戦争に異議を唱え、軍に抵抗したことは、疑う余地もなく私のこれまでの決意の中で最高のものだった。私は正しく抵抗し、ボーナスとして自由を取り戻した。もしかしたら今から10年後には、現在軍隊内部で抵抗する人々が、真実を話し行動した最初の人々として迎えられることになるかもしれない。今でも、たとえこの紛争の隅々まで知るアメリカ人の大半が簡単には納得していないとしても、私のような考えを持つ者は1人ではないと気づかせてくれる多くの仲間がいる。

真実を求めよう。そして立ち上がろう。

(以上)

イラク従軍拒否軍人への支援を行っている反戦団体:
Courage to Resist
Iraq Veterans Against the War

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05/15/2007

カート・ヴォネガットのラストインタビュー

In These Times誌のサイト上にカート・ヴォネガットの最後のインタビューが掲載されたので、以下に翻訳して掲載。

カート・ヴォネガットのラスト・インタビュー

今は亡き偉大なる作家にとって家族、無神論、インディアナでの楽しみとは

by ヘザー・オーグスティン(The Times of Northwest Indiana新聞記者):In These Times WEB2007年5月9日掲載

今年4月27日、カート・ヴォネガットはインディアナポリスの特別文化事業「ヴォネガット年」のために講演を行う予定でした。2月28日、私はニューヨーク在住のヴォネガット氏と電話で話しましたが、それが彼の最後のインタビューになったのです。

ヴォネガット氏は具合が悪かったため、長くは話せませんでしたが、家族旅行の思い出や、先祖、家族とは何かについて話しました。悲しいことに、我等家族の一員、我々カラス(karass)の1人、真のアメリカ人、偉大な作家であるヴォネガット氏は他界されました。以下はその会話です。

質問者:
「作品を書く動機、作品の素材、あなた自身の成り立ちについてインディアナ州を説明するとどうなりますか?」
ヴォネガット:
「まあ、書くことはたくさんあったな。インディアナ州は分裂していて、刺激になっている。南北戦争当時は、インディアナ州南部が南部連合につくことを恐れた州知事は議会を閉鎖したんだよ。その緊張感はとても刺激的だ。しかも、インディアナ州には人種差別の激しい地区もあちこちある。メイソン・ディクソン境界線以北でリンチが起きたのはマリオン郡で、1930年だった。当時私は子供で、クークラックス・クランの本部は私の住むインディアナポリスの地元にあった。しかし、インディアナ州は偉大なるアメリカ人社会主義者ユージーン・デブスの生地でもある。だから、騒々しくて、前進あり後退ありで楽しいんだ。私はもちろん、デブスの味方だがね。」
質問者:
「それが若い頃のあなたに影響し、作品の元になったということですか?」
ヴォネガット:
「小学校の頃、私はアメリカが・・・まあ、つまり、世界にとって自由の指標になるものと習った。そして、言うまでもなく、そうじゃなかった。私はイラクあてに米国市民として公開書簡を送ったが、それにこう書いた:“親愛なるイラクへ。我々を好きになれ。民主主義の始まりには、多少の虐殺や民族浄化も全く問題ないさ。100年たったら、奴隷を解放しろ。それで、150年たったら、女性に投票権を与えて政治に参加させてやれ。”たいした民主主義だな。ともかく、若い頃に、こういう矛盾に気づいて、他の大勢の人にはそれも容認できただろうが、私にはだめだった。」
質問者:
「インディアナ州での子供時代について話してください。すでに執筆活動をしていて、よくマキシンクッキー湖に行ったそうですね。」
ヴォネガット:
「ああ、講演になるといつも言うんだが、大家族は必要だね。孤独こそアメリカの重大な病だ。もはや大家族を持てなくなった。しかし我が家はそうだった。電話帳を見るとヴォネガット姓は大勢いたし、母方はリーバー家というんだが、リーバー姓も大勢いた。それで、マキシンクッキー湖にはコテージがたくさんあって、我が家が一軒あると、まわりは親戚だらけになった。いとこに、叔父に、叔母だ。天国だった。今では離れ離れだがね。」
質問者:
「『猫のゆりかご』にもその影響はあるのでしょうか?」
ヴォネガット:
「アイディアの源泉を辿るということはあまりやらないんだ。家族から私が学んだ基本的な態度というのは、皆が無神論者であったということかな。自分達を無神論者と呼ばなくなったのは、それがあまりにも明確にドイツ的で、第一次世界大戦からドイツ人は非常に嫌われてたからだな。私は今アメリカ人間主義協会の名誉総裁をやってるが、それも同じことだな。
でも、宗教をばかにするつもりは全くないんだよ。人々の役に立つんだからね。私にはバーニー・オハラという名の戦友がいるが、我々が市民を爆撃したことに彼は激怒した。自分たちが善人だと考えていたんだな。彼の考えでは、我々は市民をケガさせないように注意深くしていて、悪人であるナチのほうは、市民が死んでも気にしないと思っていたんだ。それでドレスデン爆撃を目撃し、戦後に船で帰国してから、除隊すると、私は彼に言った。“何か教訓は?”すると彼は答えた。“俺は二度とこの国の政府を信じないぞ”。
無神論者たちだ。人間主義だが、科学に影響を受けても、旧約聖書には影響をうけない。」
質問者:
「そういう人については私もちょっと知ってます。」
ヴォネガット:
「私の先祖は両家族とも南北戦争時代にこの国に移住した。先祖の1人は足を失くしてドイツに帰った。それでも、ともかく彼らはみな無神論者たちだった。彼らには教育があった。難民ではなかった。日和見主義者で、もの作りの仕事に就けると期待していた。
曽祖父のクレメンス・ヴォネガットはイエスについてこう言っている:“彼が良いことを言ったとして、それが素晴らしいことであれば、彼が神であるかどうかは問題じゃないだろう?”さらに私は山上の垂訓に多大な影響を受けている。さて、もう行くよ。具合が良くないんだ。グッドラック。」

(以上)


カート・ヴォネガット関連過去記事リンク:

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04/13/2007

追悼:ヴォネガットさん、どうか安らかに・・・

“私は、偶然にも、偉大なるSF作家のアイザック・アシモフの後継者として、全く役立たずの立場ながら、アメリカ人道協会名誉会長になってしまったわけです。何年か前にアイザックの追悼行事で、私が喋ることになって、こんなことを言ったんです:「今、アイザックは天に召されています。」人道主義の方々の前で言うには最高に愉快な言葉でしたな。皆さん大爆笑だ。元に戻るまで数分かかりました。あって欲しくないと思いますが、万一私が死ぬことになったら、こう言っていただきたい。「カートは今、天に召されています。」これが私のお気に入りのジョークなんですよ。”

-from 『祖国なき男(A Man Without a Country)』

カート・ヴォネガット氏公式サイト

以下、ワシントンポスト紙2007年4月12日付報道から抜粋:

戦争の不条理と科学の進歩に疑問を唱える風刺小説家として『スローターハウス5』や『猫のゆりかご』等の悲観的なユーモア作品で知られるカート・ヴォネガット氏が、水曜日に亡くなった。84歳だった。

ヴォネガット夫人で写真家のジル・クレメンツの話によれば、ヴォネガット氏は、生涯を通じた喫煙習慣にも関わらず長生きしたことをしばしば驚いていたが、数週間前にマンハッタンの自宅で倒れてから脳損傷を煩っていたという。

Kurt Vonnegut

散歩中のカート・ヴォネガット氏(source


ワシントンポスト紙からさらに引用:

生前のヴォネガットは、死ぬとしたら、飛行機に乗ってキリマンジャロの山頂にぶつかって死にたいと語っていた。また、老いることの難しさを冗談にすることもあった。

「ヘミングウェイが死を選んだ時、彼は人生の最期にピリオドを選択したのだ。老いるには、むしろセミコロンがふさわしい。」2005年、AP通信に対してヴォネガットはそう語っている。

「私の父は、ヘミングウェイと同じように、銃狂いで晩年は機嫌が悪かった。でも、父は自殺しないことを誇りにしていた。私も同じようにしようと思う。子供達に悪い手本を残さぬようにね。」


当サイトの過去記事リンク:

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12/14/2006

真珠湾攻撃65年後の証言:米巡洋艦は見ていた

先日、コロラド州の地元新聞に真珠湾攻撃に関する大変興味深い記事が掲載されたので、以下に全文翻訳して紹介。

同記事の取材先、米海軍退役軍人フェントン氏の証言によれば、真珠湾攻撃直前に、ダグラス・マッカーサー将軍(当時はアメリカ極東軍司令官)は、日本の艦隊が太平洋上を合衆国方面に向かっているという報告を受けていたことになる。

USS Boise, CL-47

米巡洋艦ボイシ(1938年-1946年)

65年が過ぎ、残された疑問(65 years later, his questions linger)

巡洋艦ボイシ乗組員は真珠湾に向かう艦隊を目撃した

by エド・シーラバー記者:コロラド・スプリング・ガゼット紙2006年12月6日記事

Joe Fenton, 82

インタビューに答える82歳のジョー・フェントンさん

毎年この時期になると、ジョー・フェントンは、後に真珠湾攻撃となる破壊行為の予見に思いをめぐらせている。

訓練所を出たばかりの17歳6ヶ月で、フェントンは米海軍巡洋艦ボイシの給油係になった。巡洋艦ボイシは、空港建設資材を輸送するために太平洋経由でフィリピンに向かう5隻の商船を護衛する任務に就いていた。1941年11月28日の夜明け前、巡洋艦の拡声器から乗組員達へ、戦闘体制を告げる命令が鳴り響いた。

慌てて甲板に上ったフェントンは、2ダースほどの国籍不明艦が3マイル先の地平に見え、東に向かっているのを確認した。月明かりに照らされ外形が浮かび上がったその艦隊は、巡洋艦ボイシの存在に気づいていなかった。

多勢に無勢の状況で、無線通話停止命令の下、巡洋艦ボイシは艦隊に発砲することなく、数日間後まで目撃事実を伝えられなかった。

巡洋艦ボイシがマニラに達すると、ボイシの乗組員達はダグラス・マッカーサー将軍の側近達に目撃事実を報告した、とフェントンは語っている。彼の記憶によると、将軍側の返答は「我が軍同様、連中にも海に入る権利はある」というものであった。

12月7日に真珠湾攻撃の知らせが伝えられてから、フェントンと同僚達は、アメリカを第二次世界大戦に巻き込むことになる艦隊を目撃したことを悟った。真珠湾攻撃直後、太平洋の或る島影に身を潜め攻撃命令を待ち待機していた巡洋艦ボイシの中では、艦隊を目撃した時に何かできることがあったのではという話で持ちきりだった。

今となっては当時の会話も記憶の奥に霞んでいる。当時の乗組員のほとんどは亡くなった。しかし、コロラド・スプリングスの水道工事会社の経営から引退したフェントンは、当時の会話を自ら再生している。

「我々はあの時全てを食い止めることができたかもしれないと思うんですよ・・・警報を鳴らしていたとしたら」82歳の老人は先週台所で語った。「いつも考えるんです・・・自分なら攻撃を防げたかもしれない・・・そう思うと本当に悲しくなるんです。」

しかし、そう考えた後でいつも思い至るのは、もし巡洋艦ボイシが、その存在を相手に知らせるような動きをしたならば、すぐさま日本の艦隊に砲撃され、ボイシは歴史のページに沈んだかもしれなかったとの実感だけ、と彼は言う。

「あの時、無線を使っていたら、第二次世界大戦の様相は全く違ったものになったかもしれませんが、その代償に命を失っていたでしょうね。」フェントンは語った。

あの朝の攻撃で失われた米国人2,500人を追悼する全米規模の催しは、今年で65年目を迎える。ハワイに行き、行事に参加する人々もいるが、地域の記念碑に集う人々も多い。

フェントンはコロラド・スプリングスで、当時の新聞の切り抜きや、海軍と後の陸軍での奮闘を示す勲章に囲まれて過ごすことになる。しかし彼の頭には、あの太平洋上で目撃した光景が焼きついている。

そこに居合わせた同僚は誰一人その瞬間を忘れては居ないが、歴史の記録には全く残されていない。乗組員の1人で現在フィラデルフィアに住み、かつて巡洋艦ボイシの同窓会を主催したメルビン・ハワードは、当時船上に居た者は誰でも攻撃命令を待ち待機していたことを思い出した。

「ついに攻撃命令は出されなかったんです」ハワードは言う。「あれで良かったんです。攻撃すれば、すぐに砲撃されて、私達は海の藻屑と消えていたでしょうからね。」

アメリカが参戦してから、巡洋艦ボイシは太平洋とヨーロッパに14回出撃し、ガダルカナル戦や、有名なドゥーリトル空襲前の偵察任務に従事していた。

1942年、巡洋艦ボイシはエスペランス岬沖で27分間に6隻の日本艦を撃沈した際に最大の栄誉を得た。船体の一部を砲弾に打ち抜かれながら、ボイラー給油係から技術者になったフェントンは、冷静だった自分を憶えている。

息子のフェントンをデンバーで育てた母親は、巡洋艦ボイセの掲載された新聞記事の切り抜きを集め、彼が帰還した時にスクラップブックにして渡した。フェントンは従軍中に日記を書いており、最近それを保存のためにタイプライターで打ち直した。

「何が起きているのかわからず、我が国は参戦してもいなかったので、艦隊は皆停止しており、我が艦の砲塔は港側に繋がれていた」1941年11月の光景を彼はそう記している。「もう少し早くトイレに行っておけば良かった。」

その後陸軍に転任し、朝鮮戦争時にアジアで短期間の任務に着いた後、フェントンはコロラド・スプリングスで起業した。フェントン配管&暖房工事社を経営し、1982年に引退。会社を息子に譲った。

会社には時折立ち寄ってコーヒーを飲み、木彫りの彫刻を家族や友人のために製作している。伴侶に2度死別されたこの名誉ある退役軍人は、毎週金曜日夜に退役軍人クラブでガールフレンドと夕食やダンスを楽しんでいる。

しかしながら、1941年暮れの出来事は過去にはなっていない。真珠湾の話題になるたびにあの日の出来事が頭に浮かび、それを考えるたびにまたしてもどうすべきだったか思いを巡らせている。

「あの時、日本の艦隊は我々に敵対的行動をとらなかった。」フェントンは言う。「まるで二人の見知らぬ者同士が夜中にすれ違ったみたいだった。我々は砲撃できなかった。そんなことをしたら、生き残れなかっただろうね。」
(以上)

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11/02/2006

ティルマンは戦場へ行った

今回は、現在全米で話題となっているケビン・ティルマン氏のコラム以下に全文翻訳して掲載。

ケビン・ティルマン氏の兄、パット・ティルマンはNFLのスター選手で、911テロ事件後に愛国心に駆られ、プロ選手としての高額年収を蹴って、弟ケビンと共に陸軍に入隊。米陸軍レンジャー部隊兵士としてイラクに派遣された後、2004年4月22日にアフガニスタンで戦死した。ケビン・ティルマン氏は2005年に除隊している。

パット・ティルマンの戦死について、当初陸軍側は「敵との交戦で殺害された」と遺族に説明していた。しかし2年経過した現在では、友軍の誤射で死亡した事実が明らかになっている。その後、戦死した兵士の遺族達の追求により、米軍が友軍の誤射による死亡例を隠してきた事実が少なくとも7件確認されており、米軍の公式戦死報告への信頼性はさらに低下しつつある。

パットの誕生日の後で
(After Pat’s Birthday)

by ケビン・ティルマン:Truthdig2006年10月19日掲載

パット・ティルマン(左)とケビン

2003年、サウジアラビアにて、陸軍レンジャー部隊のイラク派遣に同行する直前、チヌークヘリコプターの前に立つパット・ティルマン(左)と弟のケビン。

11月6日はパットの誕生日で、その次の日は投票日だ。陸軍入隊前にパットと交わした会話を思い出す。彼は軍に志願するリスクについて話していた。ひとたび入隊の誓約をしたら、我々兵士は指導者達と国民にどれくらい翻弄されることになるのだろう。どれくらい個人の意に背いた行動に駆り立てられるだろうか。兵士として戦う上で、除隊するまでにどれくらい沈黙させられることになるのか。

我々兵士たちが言葉を奪われてから、心配していた多くの出来事が起きた。

どういうわけか、我々は他国へ侵攻するために駆り出された。その国がアメリカ国民にとって、あるいは世界にとって直接的な脅威で、テロリストを匿っていて、9/11テロ攻撃に関わっており、ニジェールから兵器転用可能なウランを購入しており、移動兵器研究施設を保有し、大量破壊兵器を保有し、自由化する必要があるといわれ、民主主義を確立させるべきといわれ、反乱軍を鎮圧させて、我々が開始させた内戦-そう口にすることもできない内戦を抑えるとか、そんな理由で我々は戦地に駆り出されてきた。

どういうわけか、アメリカは全てに口出しする国家になった。そうした国を非難してきたのに。

どういうわけか、我々の選択した指導者達は世界中に秘密の収容所を設置して国際法と人道を破滅させ、秘密裏に人々を誘拐し、密かに人々を無制限に拘束し、何の罪名も告げず、密かに拷問している。どういうわけか、明白な拷問政策が、軍隊の“一部の悪人”の責任にされてしまった。

故郷に戻ってみれば、どういうわけか、兵士を支えるということが、5歳の幼稚園児に写真へクレヨンで落書きさせて海外に送ったり、自動車にステッカーをベタベタ貼ってみたり、戦闘ヘルメットに詰め物を追加するために議会に働きかけることになってしまっている。戦地派遣が3回目や4回目になる兵士達が、5歳児の絵に興味を持てると思うなんて驚きだ。周りで同僚が死んでいるのに、自動車のステッカーなのか。路上爆弾が爆発すれば乗っている車輌が50フィートも吹っ飛ばされて、手足がバラバラになったり溶けた肌がシートにへばりつくのに、ヘルメットに詰め物を追加すれば無事で居られると思っているなんて驚きだ。

どういうわけか、兵士が死ねば死ぬほど、違法な侵攻が正当化されてしまっている。

国民にウソを言い、違法に他国へ侵攻することで唯一の名声を築いているアメリカの指導者が、戦地の兵士達から勇気、徳、名誉を盗むことがどういうわけか容認されてしまっている。

数十年前の違法な戦争では怯えて戦えなかった連中が、自分達の始めた違法な侵略戦争に兵士を派遣することが、どういうわけか許されるようになった。

経歴を偽り、美徳と力を偽ることが、どういうわけか容認されている。

悲劇と恐怖から利潤を稼ぐことが、どういうわけか容認されている。

数万人の人々の死が、どういうわけか容認されている。

権利章典や憲法の破壊が、どういうわけか容認されている。

どういうわけか、人身保護法を停止することで国家の安全が保たれるとされるようになった。

どういうわけか、拷問が容認されている。

どういうわけか、ウソが容認されている。

どういうわけか、信心、教義や無意味な事情で理性が放棄されている。

どういうわけか、アメリカの指導体制が世界を一層危険にしてしまった。

どういうわけか、現実よりも話術が重要になってしまっている。