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01/19/2008

”チェスの天才”ボビー・フィッシャー氏が死去

米国生まれの元チェス世界チャンピオン、ボビー・フィッシャー氏が、17日木曜日にアイスランド首都レイキャビクの病院で亡くなったことが、アイスランド公共放送の報道で明らかになった。享年64歳。死亡原因は明らかにされていない。

シカゴで生まれ、ニューヨーク・ブルックリンで育ったフィッシャー氏(本名ロバート・ジェイムズ・フィッシャー)は、6歳で姉からチェスのセットを買い与えられたのをきっかけにチェスを習いはじめ、8歳になるとマンハッタン・チェス・クラブに出入りして腕を磨き、12歳の頃には米国内最強プレイヤーの1人とされ、15歳ですでにチェス名人の位を獲得していた。東西冷戦中の1972年、29歳のフィッシャー氏は、アイスランド・レイキャビクで開催されたチェス世界大会で、ソ連のチェス名人で当時世界チャンピオンのボリス・スパスキー氏を破り、世界チャンピオンになった。アメリカ人で同タイトルを獲得したのは現在に至るもボビー・フィッシャー氏だけである。以上ワシントンポスト紙より

I.Q. 181とも言われる頭脳を持つフィッシャー氏は、気難しい性格でも知られていた。ドイツ人物理学者の父ゲルハルト・フィッシャーとスイス人の母レジーナ・ヴェンダーの間に生まれたが、2歳の時両親は離婚。姉のジョアンとボビーは母親に引き取られた。スイスで看護婦免許を取得していた母親レジーナは教員をして二人の子を育て、後に平和活動家になったという。72年にチェスチャンピオンになったボビーが再選を目指すニクソン大統領を賞賛する一方で、母親は民主党のライバル候補、ジョージ・マクガバンを応援した。

母レジーナはユダヤ人であったが、息子のボビーは年を重ねるにつれてユダヤ人を憎悪するようになった。しかし親子の連絡は続いていたらしく、1997年に母親が死亡した際、ボビー・フィッシャー氏は悲しみに打ちひしがれていたという。母の死後まもなく姉も亡くなり、二人の死によってフィッシャー氏は調子を崩していったと知人は話している。以上NYタイムズ紙より

(ボビー・フィッシャー氏関連過去記事)


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03/25/2005

英ガーディアン紙:「ボビー・フィッシャーは最高の一手を終えた」

英ガーディアン紙2005/03/23付け記事を以下に全文翻訳して掲載。(記事中リンクは訳者による)英国流のひねくれたセンスが見事に発揮された良い記事だと思う。(本人には失礼だろうが、記事タイトルも絶妙)

3月23日、東日本入国管理センターに8ヶ月間も拘束されていた元チェス名人ボビー・フィッシャーは、アイスランド市民権を得て同国に無事出国した

フィッシャーさん、あなたに平穏無事な日々が訪れますように。

ボビー・フィッシャー関連の過去記事

フィッシャー・キング(The Fischer king)

チェスの天才、冷静な戦士はアル・カイダ狂へ転身、そして今は、アイスランド市民に。伝説の人物をスティーブン・モスが讃える。

by スティーブン・モス:英ガーディアン紙2005/03/23付け記事

Bobby Fischer in 1971: All I want to do, ever, is play chess. Photograph: AP

ボビー・フィッシャー:1971年「私のやりたいのはチェスだけ」

今、ボビー・フィッシャーは最高の一手を終えたようだ。日本の収容所(訳注:東日本入国管理センター)に押し込められたフィッシャーは、母国アメリカにおける脱税容疑と制裁措置違反容疑で---フィリピンのラジオ局で911テロを起こしたアル・カイダを賞賛した件は言及されていない---米国へ強制送還されるところだったが、アイスランド市民権の獲得に成功し、現地のニュースが伝えるところによれば明日にでもアイスランドに出国することになった。なんという結末だろう:チェックメイトの窮地から、見事な一手で勝利を収めたのだ。

ところで、なぜフィッシャーが今頃ニュースになる?チェスに関しては、1972年にアイスランド首都レイキャビクで、旧ソビエト連邦のボリス・スパスキーを破って世界タイトルを獲得して以来、第一線から遠ざかってきた。王位防衛のための条件を巡り国際チェス連盟と同意することができず、1975年には世界タイトルを剥奪されていた。結果として、29歳以降のフィッシャーは、チェス競技の場には登場していない。1992年、戦時のユーゴスラビアでスパスキーと再対局したが(これが制裁措置違反容疑の元になる)それは二人のスーパースターが競演する賞金つきのマッチプレイだった。対局は見事だったが、それほどセンセーショナルでもなかった。批評家達は揃って、二人が最盛期を過ぎたと評した。

孤立し、衰え、怒りっぽくなった62歳のアメリカ人チェス名人はなぜ今注目されたのか?彼を形容するそうした言葉は、疑問の答えの一部でもある。ブランド王国の中にあっては、人を魅了するものが王位に就くのだ。フィッシャーは大物である。彼はチェスプレイヤーが求める人物像---狂気じみて、ゲームに熱中し、チェスの手だけで自分を表現できる類の人物なのだ。

現実には、プレイヤーの多くはそうではなく、会計士のような魂の持ち主である。現在の世界チェス王であるウラジミール・クラムニクは、丁寧な、スーツを着たどこにでもいるような人物である。しかし、フィッシャーはまったく違う。東京での拘束中にも、彼は見事な逸話を残している。ゆで卵の茹で加減を巡り刑務官と揉めたフィッシャーは、独房に5日間拘禁されたのだ。事実を確認できるものはないが、おそらくその通りだったのだろう。元英国チェス王のビル・ハーストンは「チェスは人を狂わせるのではなく、狂った人を正常に保つものである」と語った。ではロバート・ジェイムズ・フィッシャーの経歴について考えてみよう。

1943年にシカゴで生まれたフィッシャーは、両親の離婚後に母親と共にブルックリンへ引越し、そこで育った。両親の離婚と、ユダヤ人である母親に似つかわしくないフィッシャーの容貌は、後に彼の苛立ちの原因となる。10代には、チェス盤は彼にとって世界そのものだった。完全に仕切られた64の区画、分かりやすいルール、対戦の興奮、勝利のスリル。白と黒だけの人生。「やりたかったことはチェスだけ」と彼は言う。その言葉どおり、フィッシャーは14歳で米国チェス王となり、15歳でチェス名人に認定された。当時の最年少記録である。

(奇人として名声を博す以外の)チェスプレイヤーとしてのフィッシャー伝説は、スパスキーと世界チャンピオンの座を争うまでの一連の対局に根ざしている。彼は世界の名人相手に20戦連続勝利を収めた。名人のチェス対局は引き分けになることが多い。後手を引いたプレイヤーは深刻な不利を蒙る。ほとんどの名人は後手で引き分けることに満足するが、フィッシャーはそうではなかった。

1970年から72年の間、フィッシャーは対戦相手全てを撃破した。タイガー・ウッズの連続勝利記録とロジャー・フェデラーの記録を足して10倍すれば、フィッシャーの当時の偉業について理解の足しになるかもしれない。彼はずば抜けており、負け知らずで、新鮮なアイデアに溢れていた。フィッシャーの有名な著作『My 60 Memorable Games』には、彼の素晴らしさと共に、対戦相手への中傷が詰まっている。彼はチェス界での類稀な支配を謳歌した。偉大なるゲイリー・カスパロフさえ、最盛期の80年代に、時折引き分けを喫していた。

アイスランドでは、フィッシャーはスパスキー撃破に臨んだ。第二次大戦以来、ソビエト連邦はチェス界を支配していた。フィッシャーは当時、完全なる冷静な戦士で、熱烈な反共産主義者で、チェス界に君臨し偉大な業績を記す風変わりな個人として、アメリカでも人気者だった。時代はなんと変わったことか!アイスランドでの勝利の後、メディアの熱い報道に支えられ、西側でもチェスブームが到来した。英国で80年代に偉大なチェスプレイヤーが活躍したのは、フィッシャーの対局に端を発している。彼はチェスの歴史を塗り替え、世界的な発展に貢献したのだ。

世界タイトルを獲得して後、フィッシャーはチェスを止めてしまった。ゲームの最高潮で、彼は降りたのだ。その意味では、彼はチェス界のジェームズ・ディーンだった。チェス盤を前に苦しみ、彼との対局にしり込みしていたプレイヤーたちに負けるフィッシャーの姿を見ることはなかった。対局を止めるにあたり、フィッシャーは従来のチェスに飽きてしまい、フィッシャー・ランダムチェスと呼ばれる新ルール(チェス盤に駒をランダムに並べてから対局を始める)を開発中と語ってたのは、伝説に輝きを与えるのみだった。

過去30年間、フィッシャーは、“さまよえるオランダ人”の如く、当てもなく世界を放浪してきた。彼は世界中に友人や支援者を抱えていた・・・ハンガリー、フィリピン、日本、アイスランド等、72年の勝利により崇拝される場所である。支援者達は、彼の突然の引退にどう感じるべきだったろうか?そして、支援者はフィッシャーが好む卵の茹で加減を知っているのだろうか?

チェスの世界で囁かれる質問はこれだ:「フィッシャーは狂ったのか?」1975年にチェス競技を止めて以来、彼の行動は日増しに常軌を逸していく。1981年、米国にまだ居た頃、フィッシャーは銀行強盗容疑で逮捕され、48時間拘束された。警察に本名を名乗ることを拒んだフィッシャーは激怒し、“私はパサデナ刑務所で拷問された!”というパンフレットを制作した。

911テロ事件後の米国に対する激しい糾弾活動は、狂気の沙汰ともいえるものであった。「これは素晴らしいニュースだ」フィリピンのラジオ局の生放送で、フィッシャーは伝えた。「私は彼等の行為を賞賛する。米国とイスラエルはずっとパレスティナ人たちを虐殺している。何年も虐殺を続けているんだ。略奪し、虐殺している。誰も気づこうとしない。今、米国は復讐を受け始めたのだ。米国を懲らしめてやれ。あの国が消えていくのを観てみたい。米国に死を!」フィッシャーの猛攻に対して、米国政府が彼を制裁措置違反で追撃するのは困難だった。米国にとって、フィッシャーは“社会の敵ナンバーワン”になった。

フィッシャーは権威を酷く嫌っており、通常のルールが自分にあてはまるとは信じない。「私はボビー・フィッシャー、天才です」かつて、或るハンガリー人の女性に対し、婚約者と別れて自分と結婚しなさいと口説いた際、彼はそんなことを言った。試みはうまくいかなかった。フィッシャーは1972年当時の自分から抜け出せずに居るのだ。未だに自分が世界チャンピオンで、冷戦時代が終わったことを受け入れない。伝えられるところによれば、フィッシャーは歯の詰め物を全て除去させていたが、それはロシア人達が自分の脳に無線信号を送信していることを恐れてのことであったという。

スパスキーはフィッシャーに、1992年の2ヶ月間対局について普段どおり持ちかけたが、フィッシャーがセルビア人の大会主宰者に提出した要求リストは異様だった。15人の武装したボディーガード、特殊なチェス盤、便器の高さまで指定されていた。「ナイト(駒)の仕様について彼の弁護士と一日中議論しました」関係者の1人が話した。「フィッシャーが言うには、馬の鼻が長すぎるというんです」

多くの人が、フィッシャーを過去最高のチェス名人と信じている。最近41歳で引退を表明したカスパロフは、公式ランキングではフィッシャーよりも上位だが、それは多少の誤解を含んでいるのかもしれない。時の経過により、公式ランキングにもインフレ的要素が生じるのだ。ひとつだけ確かなことがある。もし両者が今対決したなら、それはメディアの熱狂を呼ぶだろう。百万ドル級のチェスイベントにもなる。二人の引退したはみ出しチェス名人同士の対決に世界が注目するとなれば、現役のチェス名人達にとってなんとも癪にさわることだろう。フィッシャー対カスパロフ対局が、レイキャビクの何処かで開催?それはいい!では、その日にまたお会いしましょう。
(以上)

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09/01/2004

アメリカの「拷問と処刑」を恐れるフィッシャー

英サンデー・テレグラフ紙2004/08/31付記事を以下に翻訳掲載。(文中リンクは訳者による)

過去記事でも触れている元世界チェス王者ボビー・フィッシャー氏は、最新のインタビューでも絶好調の毒舌を披露している。極めて困難な状況に直面しているのに、本人の言葉には裏切り国家である日本への敵意と共に、どことなく機知とユーモアを感じてしまう。チェスで馴らした洞察力により、勝機を見出しているのだろうか。

アメリカの「拷問と処刑」を恐れるフィッシャー(Fischer fears ‘torture and murder’ in US )

by デビッド・バマー記者(英サンデー・テレグラフ紙2004/08/31付記事

ロンドン:元世界チェス王者のボビー・フィッシャー氏は、日本から米国に送還された場合「有罪宣告され、収監されて、拷問され殺される」と恐れている。

国外退去裁判で敗訴した後に、フィリピンラジオ局が行ったいかにも風変わりなインタビューの中で、フィッシャー氏が語ったところによると、過去3年間を過ごした日本は彼に対して「悪意ある裏切り」をした件で有罪であるという。

フィッシャー氏は、1992年に旧ユーゴスラビアで、長年のライバルであるボリス・スパスキー氏とチェス対局を行い、アメリカ合衆国の国際制裁法に抵触した容疑で10年の禁固刑を言い渡される危機に直面している。

61歳のフィッシャー氏は、成田国際空港で、合衆国政府当局により取り消しにされたパスポートを没収されてから、東京の拘置所に身柄を拘束されて6週間が経過している。「連中は私をアメリカに送還して殺そうとしている」フィッシャー氏はBombo Radyo局との、脱線気味の電話インタビューの中で話している。「連中は私を背中から刺したんだ」
(訳注:フィッシャー氏は茨城県牛久市の東日本入国管理センターに収容されている

「私は日本で35万ドル使った。日本人のために時間を割いたし、お金も払ったし、温泉に行くために大金を払ってきた。それなのに、米国大使館からの電話一本で、連中は私をアメリカの刑務所に入れて殺すつもりでいるんだ」

フィッシャー氏自身は、政治的見地から迫害されていると信じている。彼は敵意に満ちた反ユダヤ主義発言と反米発言で名声を博しており、2001年9月11日のニューヨーク同時多発テロ発生時にはテロリストを賞賛したことで悪評が広まっている。

その政治的見解にもかかわらず、フィッシャー氏にはまだ多くの支持者がいる。先日、スパスキー氏はブッシュ大統領に手紙を送り、かつての対戦相手のために弁護にまわっている。「私たちは同じ犯罪を犯したのです」スパスキー氏は書いている。「私を逮捕してください。そしてボビー・フィッシャーと同じ牢に入れてください。それに、チェスのセットも一緒にお願いしたい」

スパスキー氏の手紙の件を聞かれて、最近、日本チェス協会事務局長の渡井美代子氏との婚約を発表したばかりのフィッシャー氏は、けんか口調で答えた。「(手紙を)見たよ。気に入らないな」彼は言う。「そのトーンが気に入らない。スパスキーは私を変人扱いしていたんだ。スパスキーと牢に入るなんて嫌だよ。女の子と一緒がいい」

広範に及ぶインタビューの中で、フィッシャー氏は、核エネルギーに対する恐怖や、かつての級友、バーブラ・ストライザンドについて言及している。「ネズミに似た子だったな・・・彼女に間違いないよ」もし許可が下りた場合、アメリカ合衆国に戻るつもりがあるかと聞かれ、フィッシャー氏は言った。「ないね。全くない。だってそうだろ・・・政治的腐敗、ステロイド漬けの肉、公害・・・もうウンザリだよ。カラッポの国だからな。文化も、香りも、味もない」
(以上)

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07/26/2004

2003年11月、東京・蒲田にボビー・フィッシャーを探して・・・

今月半ばに、「チェス元王者を収容 成田で入管難民法違反容疑」というニュースが配信され、海外でもちょっとした話題になったが、この件の背景となる事情をうまく説明したと思われる記事を昨年読んでいた記憶があったので、探し出して全文翻訳し以下に掲載。

フィッシャー氏の政治的(?)発言には何ら興味を惹かれないが、FBIがフィッシャー氏を告発する理由には全く呆れてしまう。経済制裁の相手国にチェス対局に出かけて賞金を持ち帰るチェス名人は、「悪の枢軸国」からコッソリ大金を受け取る国防長官副大統領よりも罪が重いというのか?

「窮地に陥ったチェス名人(Checkmate for grandmaster)」

シドニー・モーニング・ヘラルド紙2003/11/27

ボビー・フィッシャーは、そのアメリカ合衆国に対する攻撃と反ユダヤ主義的発言により、社会の除け者にされてしまった。シェーン・グリーン記者は、世界一のチェス名人と言われる男を見つけ出し、なぜ彼がそんな賭けに出てしまったのかを探った。

東京の中心から西に8つ駅を過ぎれば、スーツ族が活動するビジネスエリアから遠く離れた労働者の町、蒲田へとたどり着く。駅を出て、靴磨きが商売を伺う前を通り過ぎ、スーパー前に陳列されたプラスティック雑貨に引き寄せられる買物客の流れに身を任せる。

そこからちょっと歩くと、ようやく目的地に着いた。日本チェス協会の本拠地は、住居を兼ねたオフィスの立ち並ぶ地域にある。建物の2階に上がり、220号室と記されたグレーのドアを目指す。ノックをして待っていると、中年の男性が廊下の突き当たりで携帯電話に怒鳴っていて、その声が古ぼけたリノリウム材に反響している。

チェス協会にはふさわしくない場所のように見えるが、特別な捜索活動に従事する者にとっては、珍しいことに出会うのは慣れている。史上最も偉大なプレイヤーと称されることもあるアメリカのチェス名人、ボビー・フィッシャーを探しに来たのだ。

話によれば、60才のフィッシャーは日本に住んでいて、チェス協会に連絡先を教えているということだった。ドア越しに応えた協会の若い事務員は、丁寧に名刺を受け取り、ボビー・フィッシャーとの対面について責任者に連絡をとる約束をしてくれた。

しかし、もしフィッシャーがドアから姿を現して、話をしたとしても、チェスの話に及ぶことはほとんど期待できないだろう。最近では、フィッシャーは、もうひとつのゲーム---妄想、敵意、反ユダヤ主義と評される類のゲームを闘っている。合衆国当局から追われて、フィッシャーは隠遁者となっていた。

「隠遁者」とは正確な表現ではないかもしれない。彼のために時間を割いてくれるラジオ局があればどこでも、自身の持ち味である辛らつな言葉で世間に登場するからだ。1999年から、アイスランド、ハンガリー、フィリピンのラジオ局による一連のインタビューで、フィッシャーは自身のテーマをしゃべりまくった---「アメリカ合衆国は“おぞましき”ユダヤ人たちによって支配されており、自分は世界中のユダヤ民族から迫害を受けている」

フィッシャーはまた、カリフォルニアにある貯蔵庫に収蔵していた合法的な個人財産が騙し取られ、違法に売り払われたと主張している。

世界のほとんどの地域で、彼の憎悪に満ちた主張は無視されていた。しかしそれも2001年9月11日までだった。同時多発テロが発生して数時間後、興奮したフィッシャーはフィリピンの バギオにあるラジオ・ボンポ局に急行した。

「素晴らしいニュースだ」フィッシャーは言った。「奴等のクソッタレな頭を蹴り飛ばす時だ。アメリカの息の根を止める時だ。」「(テロ行為を)私は賞賛する。アメリカとイスラエルは何年にもわたりパレスティナ人を虐殺してきたのに、誰も気にもしなかったんだ。そのツケがアメリカにやってきたんだ。クソッタレのアメリカに。アメリカが全滅するのを見てみたいもんだ」

インタビューのニュースは世界中を駆け巡り、必然的ながら反響がやってきた。昨年(2002年)2月、「公共の場での嘆かわしい発言」を理由に、アメリカ合衆国チェス連盟はフィッシャーを除名した。

ラジオ・ボンポ局のパブロ・マルカド氏にとって、問題となった番組はフィッシャーと彼にとって13回目のインタビューであり、それが最後であった。マルカド氏は、フィリピンチェス名人のユージン・トーレ氏からフィッシャーを紹介されていた。フィッシャーがフィリピンに来るときは、夕食を供にした。

「彼は非常に強い個性の持ち主だと思う」マルカド氏はそう言うと、フィッシャーの発言についての道徳的判断については言及を避けた。「フィッシャーは話しやすい人物だが、それは彼が信頼する相手に限ってのことだ。その頃の彼は私を信頼してくれた。彼は気安い男で、独自の観点を持っている。もちろん声も大きいよ。アメリカ人だからな」

かつて、フィッシャーはアメリカンヒーローだった。彼が頭角を現したのは1956年、最年少の13歳で全米チェス王者になった頃からだ。キャリアの頂点は1972年にアイスランドで開催された世界大会で、ソ連のボリス・スパスキーと対局した時だ。その対局はやがて冷戦の象徴となった。フィッシャーは勝利し、国家の英雄となったのである。

その後、フィッシャーはトーナメント出場をしなくなった。その理由については様々な憶測を呼んでいるが、フィッシャー対スパスキー対局のテレビ放映を企画したシェルビー・ライマン氏は、アトランティック・マンスリー紙の記事で語っている:「負けず嫌いなのと、伝説を壊すことが、フィッシャーが二度と対局しない理由の大部分を占めていた」

フィッシャーが再び注目されたのは、1992年、以前とはかなり異なった状況においてだった。ユーゴスラビアで、彼はスパスキーと再度対局したが、それは、当時の合衆国大統領だったブッシュ父の通商禁止令に背く活動だった。フィッシャーは対局に勝利したが、FBIによって告訴される立場に陥ってしまったのである。大統領令に背いた場合の罰則は、10年以上の禁固刑になる。

その時からフィッシャーは亡命者となり、ハンガリー、ホンコン、(妻子が居るとされる)フィリピンに住んでいると伝えられていた。そして今は日本である。なぜ日本なのか?

パブロ・マルカド氏はフィッシャーに理由を聞いたという。「日本は大丈夫だ。日本政府は彼を困らせるようなことはしない」マルカド氏は言った。「(フィッシャーの話では)日本の当局者は他国ほど厳格じゃないということだ」

日本の政府当局者の対応は、無関心といった類のものだ。米国政府からフィッシャーに関して指令があるかどうかについて、警察庁はコメントを避けている。日本の政府当局者の1人は言う。「米国政府に問い合わせるべきだと思いますよ」

東京にある合衆国大使館も、沈黙したままだ。広報官は言う。「進行中の件についてはコメントできない」

最近、フィッシャーに関する記事が日本の新聞に掲載された。1月に、朝日新聞が報じたところによれば、昨年(2002年)12月に、フィッシャーは日本チェス協会に赴き、壁に飾られたチェス対局の絵に目を留めた。「私の対局だ」協会の事務員に告げると、フィッシャーは絵に署名した。後日、その絵は壁から降ろされ、ハリー・ポッターのポスターに交換されたという。

朝日新聞の記事によれば、フィッシャーは「2メートルはあろうかという体で、威嚇的な雰囲気だった。気難しく、怒りっぽい。彼について話す友人もなく、ミステリアスな存在となっている。日本のチェス関係者は彼に関心がない」とのことだ。

しかし、日本チェス協会は、連絡窓口となることで、フィッシャーをサポートしているようだ。「協会はコメントしません。彼はジャーナリストとの接触を嫌っています」同協会の渡井美代子会長代行は言った。

チェスのコミュニティでは、フィッシャーの評価をめぐり挑発的な分裂が生じている。チェスの天才フィッシャーは、「嫌われ者」フィッシャーとは別と見なすべきか?

「フィッシャーがチェスで成し遂げた功績に対しては、今でも賞賛する人は大勢居ます」かつてフィッシャーが記憶に残る対局をしたことがある、ニューヨークのマーシャル・チェス・クラブ会長、ダグラス・ベリッツィ氏は語る。「チェスに関しては、フィッシャーは偉大な対局者でした。彼の対局は世界を感動させたんですから」ベリッツィ氏はフィッシャー氏の暗部についてはコメントを避けた。「不快な事情に関する議論には巻き込まれたくないんです」

フィッシャーの成功を綴った伝記「Bobby Fischer: Profile of a Prodigy」の著者、フランク・ブレイディ氏は、フィッシャーの世界観について残念に思っているという。「反アメリカ的で思いやりに欠けるし、口外に値しない」

ブレイディ氏は、今でもフィッシャーのことを現存する最高のチェス名人であると信じている。「ゲイリー・カスパロフも含めてね」(カスパロフ氏は前世界チャンピオンで、現在でも世界最高にランクされるチェス名人)

「フィッシャーはチェス界のベートーベンか、ミケランジェロだ。彼の対局は永遠に残るだろう」ブレイディ氏は言う。「ボビーは心の狭いひねくれた人物になってしまったといわれるが、私が知っている若い頃の彼はそんな人物ではなかった。とても魅力的で、広い心の持ち主だった。今では全て失くしてしまったが」

フィッシャーは、彼の言うところの「古いチェス」はやらないという。彼によれば「芯まで腐っている」とのことだ。その代わりに彼は、フィッシャー・ランダム・チェスを開発したという。最後列の駒が無作為にシャッフルされている。従来のセオリーは廃棄されており、良いプレイヤーが勝つとは限らない。

フィッシャーは新聞や雑誌インタビューを30年間行っていない。代わりに、人目につかないラジオ局やインターネットに活躍の場を探している。フィッシャーはラジオ放送の最後にWebサイトのアドレスを伝える。サイトは彼自身の作品のようだが、自身を第三者として言及している。内容は、ラジオで行っている非難---それもオンラインで聴くことが可能だ---のインターネット版といったところだ。FBIの告発状他各種書類を掲載している。

インターネットはフィッシャーにとって重要な存在だ。彼に放送時間を与えるラジオ局はだんだん減少しているように見えるからである。近年では、放送は2回きりだった。一つはアイスランドのラジオ局で、最も最近の例では6月、マニラを拠点とするラジオ局の放送だった。

最後のインタビューでも、相変わらずのフィッシャー節に、以前と同じ辛辣な言葉が飛び出した。「アメリカはこれ以上長く存続できないと思う」彼は言う。「米国があまりにも早く崩壊し、過去の遺物へと成り果てるということに皆さんも驚くことになるだろう」

インタビューの終わりに、フィッシャーは聞き手を見つける苦労について打ち明けている。「どこに行ってもうまくいかないんだ」彼は不満を漏らした。「アイスランドでのインタビューの後、世界のどこにも居場所がなくなってしまっている。ただの一箇所もないんだ」

それはおそらく、フィッシャーへの対応をめぐるジレンマの核心をついたものだ。放送時間が過ぎてしまえば、フィッシャーの持ち味である憎悪はどこかへ霧散していくのだろう。

それはまた、フィッシャーを探すうちに膨らんできたジレンマのことでもあった。彼について知れば知るほど、彼を見つけ出したいという気持ちはなくなっていったのだ。


(訳注:原文はチェスの歩(ポーン)をもじった言い回しのようですが、内容がよくわからないので意訳しました。原文:why he turned himself into a pawn)

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